2005年05月18日
まったく正確な表現ではないが、永井均さんはその著書にて
「既存の哲学によらない自分自身から出た生の疑問こそが
 哲学と呼べるのである」
みたいなことを書いている。

僕の哲学的疑問は、過去と記憶にある。

いまだにこの違和感と疑問は明確にできない。
何が問題となっているのかもわからない。
しかし、がんばって言葉にしていこうと思う。

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■なぜ、過去を変えられないのか

これが最初の疑問。
可能かどうかはともかく、果たして本当に僕の疑問は
ここにあるのだろうか。
過去を「変える」とはどういうことか。
嫌な思い出、失敗、後悔などを「無かったことにする」ことなのか?

まるで映画「ドニーダーコ」のよう
http://www.donnie.jp/
ヒロインは「過去の嫌な思い出を、良い思い出に変えることができれば…」と言っていた。

つらい体験をした後でよく「忘れたい」という願望を持つことがあるが
「忘れる」ことは本当に可能なのだろうか?
忘れてしまう。無かったことになる。これらは真の無になるということだ。
初めから後悔する自分や、原因や、消したいと思う願望も
その何もかもが無かったということではないか。

もし仮に嫌な思い出が良い思い出に変わったとすると
嫌な回想そのものが消滅する。
記憶をなくしたその人は、もはや別人ではないか。

記憶こそがその人を作る。
記憶こそがアイデンティティ。
記憶こそが全て。

漠然とであるが、僕はその考えにとりつかれているようだ。


■なぜ、過去に戻れないのか

どうやら真の疑問は、こっちらしい。
過去に戻ると、果たしてどんな良いことがあるだろう?
楽しい思い出を何度も体験することができる。
しかし現実にはそうではない。
良いことも、悪いことも、全てはたった一度しか起こらない。
そして全ては過去になる。言語化された記憶となる。

繰り返せない出来事に、体験するほどの価値なんてあるんだろうか?
全てはたった1度きりの体験を通して過去になる。
そしてどんな出来事も、いずれ過去となる。
2度と戻れない。


最後の疑問は、これ。

■なぜ、誰もこれを疑問に思ったり、恐れたりしないのだろう?

哲学、それも時間論についていくつか本を読んできたが
このことを問題として扱ってるものが存在しないのはなぜだろう?
(これほどまでに恐ろしい問題なのに)
唯一、近いと思うのは中島義道さんで、中島さんは「死」を恐れる。
その理由と、僕が過去と記憶について恐怖し無力感を感じることには
共通点があると思う。


また気が向いたら考えを深めます。
posted by Azot at 02:03 | ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | +思想の果て+
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