2005年04月22日
両者には多くの差異が見られる。

まず、過去は客観的時間で計られるものだ。
2年前のあなたが、確かにそこにいたという証拠は
人の話や、写真や、客観的事実を探せば良い。
たった一つに決まっているものが、過去。
過去は、変えられないし、偽らない。

記憶は、主観的時間である。別の言い方をすれば極めて個人的なもの。
私的体験であり、私的言語。
たとえ何人かの人が一度に同じ出来事を体験したとしても
記憶にどのように残るかは人それぞれ。
残る人もいるし、残らない人もいる。
トラウマとなる人もいる。
回想することで何かを語ろうとしても、極めて不明確な場合がある。
そして流動的である。
記憶は変わる。記憶はいつか色褪せてしまうもの。

我々がしがみついている何かの記憶は
我々自身が作り出しているものではないか?

そしてその都度都合よく作り変えることのできるものではないか?
(または何かの拍子で作り変えられるものではないか?)


記憶にとって、何が真実だと言える?


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(この文章は、以前のブログから転載しました)
posted by Azot at 16:36 | ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | +時間論+
『1:時間の流れ』で、二つの考え方が生まれた。
これらに名前を付ける。

[客観的時間]
・歴史年表のようなもの。点として全ての「時刻」が刻まれているが
 年表そのものに時間の流れは"ない"
 起こりえる全ての出来事が記述されている。
・我々の、誰の主観にもよらない。あえて言えば神の視点と言えるかな。

[主観的時間]
・「今」から開かれる「過去」と「未来」という意味での「時間」
・いつ、誰にとっての「今」なのかで意味が異なる。

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(この文章は、以前のブログから転載しました)
posted by Azot at 16:34 | ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | +時間論+
時間は、時々川の流れにたとえられる。

なぜなら「未来がやってくる。過去が去ってゆく」という
感覚を我々が持っているからだ。

しかし、一体何に対して流れているのか?
時間の流れが川の流れだとしても、対岸も周りの景色も存在しないのであれば
一体何が流れ、何が動いているのか・・

では例えば仮に、「時間の中を流れている自分」を
外から見ることが出来るような場面をイメージしてみよう。
ここに仮に、この世の中の出来事、そう、過去から未来まで全てを網羅した
一冊の本があるとしよう。「歴史年表」のようなものだ。
この本の中には「時間」があると言えるだろうか。

ただし我々は「今」しか感じることができない。
そして何よりも重要なことは、この「歴史年表」のどの瞬間だって
「今」になりえるってことだ。
レコードに針を落とすようにある時点を「今」としよう。
例えば・・2005年1月13日、とか。
するとその瞬間に1月12日は「過去」と呼ばれ、過ぎ去ったものとなる。
次に1月14日はいずれ来るものとして「未来」と呼ばれる。

これらのプロセスを経て、どうやら「時間」の概念は生まれるらしい。

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(この文章は、以前のブログから転載しました)
posted by Azot at 16:32 | ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | +時間論+

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